教師のブログ

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ブログ一覧

【No.22】教師という仕事には「やりがい搾取」という付帯条件が付いている

 すでに「教員の働き方改革と組織改革」のページで述べたとおり、子どもたちの学びを支える教員の不足が深刻になっています。特に小学校の教員不足が深刻で、新年度を迎えても学級担任を担うべき教諭が足りなくて主幹教諭や副校長が代役を果たしたり、正規教員が足りなくて非常勤講師などの非正規教員が年度当初から学級担任を受け持ったりするケースが全国の学校現場で発生しています。学校現場の現況とその解決法・指針についてはこのHPですでに明らかにしていますので、ここで改めて云々するつもりはありませんが・・・。
 一般的に「やりがい搾取」とは、労働者の「やりがい」を利用して、長時間労働・低賃金で業務を行わせ、利益を搾取する行為です。ただ、教師という仕事の特殊性を考えた場合、この定義は一概には当てはまりません。大抵の教員にとって、授業準備自体は嫌なものでも辛いものでもなく、むしろ爽やかで楽しみでさえあるでしょう。また部活動本命の顧問は、休日返上でも労苦を厭わず子供たちのために尽くすことは「やりがい」だとすら感じています。ですから、仕事がまだ残っているのに「定時退校日だ」と言われても、逆にそれは困るのです。
 教育という仕事は、「人の役に立っている仕事」という意識や、「物事に対する充実感や手応え」「社会的使命感」を得られやすいといったことから、最も「やりがい搾取」を受けやすい職業だとされています。教員は、ジョブクラフティング(Job Crafting)に取り組むことで主体的な「やりがい」を獲得することができます。教員は命じられるまま動くのではなく、自分の意思で担当する仕事に向き合うことでモチベーションが高まり、パフォーマンスの向上が期待できるのです。要するに「使役による強制」や「管理による搾取」に頼るだけではダメだということです。
 私は今、警備の仕事と私立校の非常勤講師のダブルワークをやっていますが、現在どの業界も一般に人手不足が深刻になっています。人手過剰で「おまえの代わりなんかいくらでもいるよ」なんて言われるよりは、一人ひとりが大切にされる世の中になっていくのはいいことなのではないでしょうか。文科省は「教員不足は、少子化が進む中で、数年後には自然に解消していくのではないか」という、相変わらず能天気なことを言っています。公立学校という官僚組織は、とことん窮地に追い込まないと本格的な改革を始めません。教員志願者数は年々減少の一途をたどっていますが、今のところ、どの自治体も「定員割れ」がないだけまだマシだと思っていた方がいいでしょう。

2024年05月02日

【No.21】愛知県公立高入試選抜結果(R.6)を分析する

 愛知県公立高入試選抜の最近の動向は、「勝ち組」「負け組」の二極化がほぼ定着しつつあり、その間隙を縫って私立校が追撃をするといった構図が明らかになっています。かつては第2希望で何とか二次募集を免れていた商業高校・商業科も、例外なく二極化が進んでいます。
 すでに「商業高校を再生する」の項で述べたとおり、学科改編の狙いは「周辺地域の商業高校・商業科を切り捨て、中核校だけが生き残る」という方策であることは入試結果から見てほぼ間違いありません。今でこそ表立ってはいませんが、将来的には、商業教育の中核校として高度な専門性を身に付ける3校だけが、物的・金銭的な予算配分や人材配置などで優遇されないとも限りません。一方で、「地域ビジネス科」や「観光コース」といった「限定されたもの」に対しては、志願者が集まらないといった傾向が見られます。これもすでに前項で述べたとおり、学科のネーミングとしては「総合ビジネス科」ないしは単に「ビジネス科」といったオーソドックスなものにして、学年でクラス間格差が生じないよう弾力的に均等なクラスを作り、コースに分かれるときだけ分割履修にするといったシンプルな形にした方がいいように思います。
 また、県下初の全日制単位制高校として誕生した「キャリアビジネス科」ですが、志願者が集まらない理由として、「イメージが定着していない」ということのほかに「他の商業高校との特徴の差がはっきりしない、わからない」といったことが挙げられます。もしその特徴が「自分の希望する進路や興味・関心に応じてカリキュラムや時間割を主体的に考えて学ぶことができる」というのであれば、志願者は、より選択幅の広い「総合学科」の方に流れることになるでしょう。全日制の単位制高校は他府県にもあるにはあるのですが、もし「単位制高校」としてのメリットを生かすのであれば、それは「全日制」ではなく、むしろ「通信制」ということが言えます。この学校を再生するならば、今までの商業高校の延長線上としてとらえるのではなく、例えば、全国をオンラインで結んで志願者を募集している「角川ドワンゴ学園 N高/S高」のように、進取の気性を持って新しい取り組みを目指すべきだと私は考えています。

2024年03月12日

【No.20】マスコミ型民主主義の落とし穴

 女子児童が書いた「わたしは死ねばいいのに」などといじめ・自殺をほのめかしたノートに、担任は“花マル”をつけたうえで “you can do it” と書いて返却するなど不適切な対応をしたという記事が話題になった。このことから、今の世相を反映したセンセー(先生)ショナルな現代のマスコミの記事の取り上げ方について分析したいと思う。
 この担任の行為を善意に解釈すれば、“花マル” は「頑張って書いてくれて、ありがとう」という感謝の意味にもとれるし、“you can do it” を「君ならできる」と解釈すれば励ましの言葉にもなる。一方、悪意に転ずれば、“花マル” は、いじめ・自殺をほのめかした女子児童のシグナルに対して「無頓着」であると解釈され、“you can do it” は「自殺するならしたら?」という「非情さ」を浮き出している。マスコミは基本的には「左翼思想」の立場なので、視聴者受けを狙って、後者の解釈の仕方をするのが通例である。本来はもっと公正な内容にして欲しいのだが、そんな記事はおそらく売り物にはならないのであろう。そして最後に、市長・市教委らがマスコミに煽られて謝罪をするといった、いつものお決まりのパターンにはまる。教育委員会がまとめた調査報告書によれば、女子児童と担任教師との関係や友達同士の会話のやり取り等が詳細に記されているが、どれもこれも日常的な学校生活の中で繰り広げられるドラマの一コマである。
 通常、いじめ問題は、小・中・高問わず、どこの学校でも毎年いじめアンケートを実施し、問題があればこれを担任会・学年会に提起し、深刻な場合は特別指導に入る。そして、職員会議で報告があり全教職員が周知することとなる。おそらくこの小学校も、どこの学校でも当然のこととしてやっている真っ当なことをやっていたのだと思う。道義上、学校側も担任も、いじめ問題をこれ以上こじらせエスカレートさせようなどとは思っていなかったはずである。すでにP3で述べたとおり、いじめの断定は「単純な事実」として扱うほど簡単なものではなく、いじめていると認定された子供たちやその周囲の子供たちでさえも「これはいじめではない」「やっていない」と言い募り、教員の認定をなかなか認めないことだってある。そういった困難な実情も現場側に立って説明して欲しいところである。
 児童の両親は、取材に対し「学校は警察じゃないと言われてしまった」と言っているが、学校の対応としては間違っていないと思う。学校は「犯人捜し」をする場ではないし、その指導のありようは、「被害者」を擁護して「加害者」を罰するというような単純なものではなく、むしろ関係するそれぞれの子供たちが少しずつ大人になり、互いの関係を修復していけるような教育的な指導をするわけである。
 気の毒なのは、保護者に仕打ちをされて、上からも周囲からもバッシングを受けている担任の方であろう。犯罪人に仕立てられ、警察官の捜査のごとく取り調べを受けて「部下を売る」ようなことになれば、教師・担任として立つ瀬がなくなってしまう。私はこの担任に、思わず同情の念を抱かずにはいられない。
 ただこの担任は、いじめの対応については稚拙さも見受けられる。もし児童がいじめ・自殺をほのめかすようなことを書いたならば、私なら「よく頑張って書いてくれたね、一緒に問題の解決方法を考えよう」と共感を引き出し、最後に “you can do it” ではなく “do your best” と書き添えるだろう。しかし程度の差はどうであれ、原則、学校・教師は「バッシング」の対象にされるのではなく「リスペクト」されることが大前提である。市長は「子どもの声を最優先するのが大事」と言っているが、学校の中に「市民社会」を持ち込めば、子供たちは「オレ様化」してしまい、「教師-生徒」の関係が崩れて指導そのものが立ち行かなくなってしまう。
 マスコミによるセンセー(先生)ショナルな記事の書き方にも問題はあるが、元々、こういった教師の「ミス」や「不注意」を大体的に宣伝し、大衆の興味や関心を煽り立て、教師への激しい「バッシング」を生み出し、その責任を取らせるために「見せしめ」のようなことを繰り返してきた歴史があるのも事実である。やはり、マスコミの言う事をそのまま鵜呑みにしてはならない。

2023年12月12日

【No.19】変形労働時間制の導入は「教員の働き方改革」に対して真面に取り組もうとしない教育行政の怠慢である

 変形労働時間制とは、1か月を超え1年以内の期間で、週あたり正規の勤務時間が平均38時間45分となること等を条件として、業務の繁閑に応じて勤務時間を配分することを認める制度です。具体的には、長期休業期間等において休日を集中して確保することを目的としたもので、休日の「まとめ取り」を繁忙期ではなく、もともと授業や学校行事などの無い夏休みなどに取るというものです。一体これで何を意図として問題を解決しようとしているのかが私にはさっぱりわからないのですが・・・。おそらくこれを発案した人は「教員は夏休みや冬休みがあって、いいな」というぐらいの認識しかなかったのでしょう。
 1年を通じて教師の仕事が集中しているのは、年度替わりの3月/4月、成績処理を行う7月/12月/2月あたりです。これは、おおよそどこの学校でも共通していえることで、教師の仕事はある時期にドッと集中するのが特徴です。そして、厳しい締切日に間に合うように長時間労働をするわけで、当然、そんなところで休日など取れるはずがありません。そして、生徒を相手にしたり授業準備したりといった爽やかな仕事とは一線を画する周辺業務が、湧き水が大河になるが如く雪崩のように押し寄せてくる。そんな現況を知らない肩書のご立派な人たちが、学校から一番遠く離れた所に集まって具体的な対策を決めるものだから、現場と齟齬が起きるのは当然のことなのだ。
 文科省も、アクティブラーニングだの、観点別評価だの、教授法や評価に関する細々としたことは学校現場に任せておけばいいのであって、国としてまずやるべきことは「法律の改正」でしょう。文科省が定めた「学校設置基準」によれば、1学級の生徒数は、小学1年生のみ「35人以下」、小学2年生から高校まで「40人以下」と定められています。諸外国に目を向ければ、OECD加盟国の平均(2020年)は、小学校で21.0人、中学校で32.1人で、1学級の人数の多さからみても、日本と韓国がダントツに多い。席替えをしたあとに、HRでも授業でもある特定の生徒に話しかけたい場合、40人であるならば座席表で位置を確認するのが普通であろう。私の経験では、座席表なしで目が届く範囲というのは最大30人です。政治家も本気で日本の教育をよくしようという覚悟があるならば「30人学級の実現」を公約に掲げて欲しいものである。

2023年09月10日

【No.18】公教育は「いかに選別するか」ではなく「いかに伸ばすか」に傾注すべきである

 愛知県では令和5年度入学者より、高等学校や学科の特色を生かした選抜として「特色選抜」を実施することになった。入学検査の内容は、面接を必須とし、その他に作文、基礎学力検査、プレゼンテーション、特別検査(実技試験)のうちの一つを実施するというものである。県も公・私逆転の危惧からか、生徒を早くから取り込みたい意向なのであろう。
 中学校では入試制度に合わせて受験対策や受験テクニックを講じることになるのだが、すでに「学校改革と徳育の重要性」の項で述べたとおり、入試制度がどのように変わろうとも、ある母集団から特定の資質や能力を持った者を選別する仕組みであることには変わりがない。本来無限の能力を有する人間を、一度の入試で決めていいものか、製品分析でもするかのように人間の能力を正しく測れるのか、といった疑問が残る。
 ある人が将来、何に興味を持ち、何を転機として考え方が変わり、努力して能力を伸ばすのかということは誰にもわからないのだから、「選別する」という考え方を捨てて、向学心ある者は原則としてすべてを受け入れ、機会を与えて、入学した生徒を「いかに伸ばすか」ということに注力するのが公教育本来の在り方だと私は思う。その代わりに、公立学校はすべて「義務教育修了認定試験」ないしは「高校入学資格検定」を実施して「足切り」をやるべきである。作文・学力検査・プレゼンテーション・実技試験などは、入学時ではなく、むしろ教育課程修了時に行うものであろう。だから「入口」ではなく「出口」の方をもっと注視した方がいい。日本の学校の場合は、これが逆なのである。

2023年08月06日

【No.17】リーダーの資質を問う

 東洋哲学では、人の世を治めるための「治者」というものを考える時に、一番立派な人格というものはどういうものかということを考える。呂新吾(ろしんご:明代後期の哲学者)が収録した呻吟語(しんぎんご)と呼ばれる自己啓発書の中に、「その徳、天の如し」ということが書き記されてある。即ち「深沈厚重」、限りなき内容を持っていてどこまでも深く落ち着いている。しかも「私」が無い、「公平無私」である。これが第一等の人格です。次に「磊落豪遊(らいらくごうゆう)」、つまり小さな型にはまらず、大まかで気魄(きはく)があり、スケールが大きいということ。第三番目に「聡明才弁は是れ第三等の資質」、つまり頭が良くて才があり弁舌が立つこと。それからあとはだんだん平凡になってくるわけです。明治時代の人のやり取りする書簡などを見ますと、人物評論するのに大体この線に沿っていますね。ところが明治後半になってくると、人間の本質を問題にしないで、役に立つ器、即ち「器用」を問題にするようになる。法律に通じた人間はいないか、交通問題の専門はいないか、電気のエキスパートはいないかといったように、専ら「器用」を問題にして人を求めるようになってくる。その「器用」のために欧米先進国に一日も早く追いつき追い越せということで、道徳なんか忘れて「器用」一点張りになっていった。「器用」の人間を養成するためにいきなり大学にやるわけにはいかないから、高校、中学校、小学校を作り、すべてを大学の予備校にしてしまった。そこに明治の一大失敗がある。このことが尾を引いて、学校教育、制度が完備されるに従って、人物本位、人間本位、本質的に人間を見る眼が失われていき、手っ取り早く役に立つ人間を作ろうと「道」を忘れて「器」に走った。今日の政治・経済の退廃・凋落ぶりは、「道人」がいなくなって「器人」になった結果ではないのか。聡明才弁ほど「道」に基づかなければだめで、東洋的な考え方から言えば、本当の価値というものは最も「道」に近くなければならない。
 幕末に詠まれた落首に「世の中はさようでござる、ごもっとも、何とござるか、しかと存ぜず」という句があるが、まさにその通りで、「道」を失うと「撥乱独裁(はつらんどくさい)」になり「傲慢放奢(ごうまんほうしゃ)」になる。つまり、上に立つものが自分の功業を誇って贅沢をするようになる。こういう風になると人間の悪い面が出てきて、必ず上に立つものに「阿諛迎合(あゆげいごう)」するようになってくる。そうなると、我こそ気に入られよう、自分こそ恩寵にあずかろうとして「嫉視拝擠(しっしはいせい)」というものが起こる。これは、政治でも企業でも学校でも組織の大小にかかわらず必ず起きる。これは要するに、自分の取り巻きにイエスマンの茶坊主だけを集めて慢心してはならないということだ。
 今後の国家、世界というものを作るには、結局、人々が個人に返り、自己自身を回復するよりほかに本当の道はないのだと思う。それをなおざりにして、政策だの、法律だの、組織だのと方便的・手段的に何かをやったところで到底救われるものではない。やはり、人々が各々の尊い心境を開くということにならないとだめで、これが一番の近道である。かつて池田内閣が提唱した「期待される人間像」も、個人として、家族として、社会人として、それぞれに理想的な人間像の要素を提示したものではあるが、これは要するに説明・解説・理論・知識に過ぎない。実際において、血の通った人間像や理想像とかいうものは、必ず誰かに感激し、私淑(ししゅく)して模範として学ぶものがなければなければならない。管理統制のツールとしてよく使われる「勤務評定」という姑息な手段に頼らずとも、その人のなり振りを見てリーダーとして尊敬され、その人から模範として学ぶものがあれば、人は自然と頭を下げるものである。

2023年05月02日

【No.16】リーダーを選ぶ仕組みを鍛える

 平成12年度より東京都で「人事考課制度」が実施されたことを皮切りに、愛知県でも平成19年度より「教職員評価制度」が導入されました。しかし、県の教育管理職任用制度は旧態依然のままで、いまだに密室の中で人事が行われているという不透明な実態が残されています。その理由はよくわかりませんが、どこの職場にもグレーゾーンを嫌って明瞭性を求める人や、地位や特権に憧れる人たちがいるのだから、東京都と同じように選考基準を明確にして「一般選考」を実施すべきではないのでしょうか。
 また、厚生労働省は「同一労働同一賃金」のガイドラインの中で、「職人のようなスペシャリストは別として、正規雇用も非正規雇用も仕事内容がさほど変わらなければ、賃金や待遇において格差をつけるべきではない」という方針を打ち出しています。教職という仕事は、1週間や1年の経験ならまだしも、3年経験したならば10年経験した者とやっていることはさほど大差はないし、管理職のやっている事務作業、人事、ミスチェックぐらいなら、自分だけでなく誰にだってやろうと思えばできる仕事である。ましてや、校長や教頭もヒラと同じ、県に採用された「雇われマダム」「雇われムッシュ」なのだし、公立学校ならば校長に雇われて職員が勤務をしているわけではない。従って、職階制において職員を階層化・序列化したり、分断するなど、本来は格差をつけるべき性質のものではないはずである。これはプロ野球と同じで、プレーヤーとしての能力とマネジメントの能力は次元が異なるものだからである。
 一方職員側も、自治力を失い、すでに死に体となった第1組合「愛〇教」や、存在意義の無い御用組合「日本〇〇会」など、何の益も生み出さない、ただ職員を分断するだけのような派閥は、早急に解散すべきでしょう。その代わりに、学校や教師主体の現場主義を推進していくような「職場組合」を新たに結成する必要があります。
 管理職側も組合側も、それぞれが独自の立場と役割をもって存在しているのだから、お互いに対立しつつ調和しながら、社会の理法に基づいて生成発展の姿を生み出していくことが肝要です。対立はするが調和はしないというのでは、やはり物事はスムーズに運ばないでしょうし、その逆に、各自が調和のことばかり考えていたずらに妥協し、それぞれの持ち味を十分に生かすことを怠れば、ここにも真の繁栄はありえないと思われます。提案者がいて「こういう風にしたらよいと思うが、いかがですか」と問えば、「それは結構です、それではこういう風にやりましょう」という合議制のもとで方針を決めるのが一番望ましい姿なのではないか。やはり、こうした労使関係の近代化は必要です。縦ラインの長い組織の中では、私のような存在感の薄い人間の提案は、どこかでもみ消しにされてしまいます。
 あと、労使問題を仲裁・解決するような窓口機関も必要です。2009年に起きた公災訴訟も、地方公務員災害補償基金愛知県支部に対して公務災害認定を何度も請求したが却下され、2018年の名古屋高裁で勝利の判決が下されるまで、計20回も口頭弁論をやっています。これは、校長というフィルターを通して任命権者に申請しなければいけないという仕組みの問題と、支部が管理職の天下り先になっているという構造的な欠陥があります。判決が確定したあと、支部のリンクが消され、財務内容や人事など極めて不透明な隠蔽体質が改めて浮き彫りにされました。

2023年03月27日

【No.15】職場組合を作ろう!

 私が公立学校に採用された当初は組合活動が盛んで、比較的教職員の自治を重んじる、いかにも戦後民主主義の美しい神話を残した学校が県内にもたくさんありました。職員会議では活発な意見が交わされて、そこに教師としての気概や誇りを感じて働いていましたし、学校への帰属意識もありました。しかし、バッシングの風潮や検定至上主義による学習内容のグローバル化などの流れの中で、教職員への締め付けが、それこそ「真綿で首を絞めるがごとく」進められていき、学校に当初は3分の1ほどいた組合員数も今では風前の灯火になってしまいました。
 こうした自治力の低下は、時代の流れに沿って自らのイデオロギー体質を変えず、若い教師を取り込めなかった第1組合「愛〇教」にも問題があります。一方、学校や職場を正常化するというという目的で後から作られた第2組合「日本〇〇会」も、組合本来の主旨とは異なり、事実上、管理職が現場支配を強めるための下部機関であって、第1組合に自治力がなくなった今、それに対抗するための存在意義は無くなったと言っても過言ではありません。
 学校の名のもと、みんなで神輿をかついで職場を活性化するためには、「我々職員は、お互いに共通の目的を持った、共に同じ職場で働く同志である」という団結のもとに「一人一人が経営者」の精神を持って衆知を集め、学校運営に当たらなければいけません。そのためには、職員が「もの言わぬ子羊の群れ」になってしまってはダメです。働く人の意見を職場に反映させることのみならず、教育という社会貢献活動を通じて我々専門職が一つになり、教育現場を大学の研究室や役所のデスクワークから切り離して「学校や教師主体の現場主義」を推進していかなければいけません。
 まあ、さしあたりお茶飲み友達でも誘って「コーヒーの会」あたりから草の根的に始めてみてはどうでしょうか。

2023年01月26日

【No.14】衝撃! 自分はHSPであることに初めて気づいた

 HSPとは「Highly Sensitive Person」の頭文字をとったもので、「非常に感受性が強く、敏感な気質を持った人」という意味です。1996年に、アメリカの臨床心理学者エレイン・アーロンが出版した本の中で初めて紹介されました。日本では「繊細さん」と呼ばれることもあります。これは、環境や性格などの後天的なものではなく、先天的な気質、即ち、生まれ持った「性質」であることがわかっています。統計的には人口の15%~20%、5人に1人が当てはまる「性質」であり、日本人には特に多いようです。
 具体的には、次のような気質の人が当てはまります。
 ①考え方が複雑で、深く考えてから行動する。
 ②その場限りの快楽よりも、生き方や哲学的な物事に興味があり、浅はかな人間や話が嫌い。
 ③人混みや騒音が苦手。
 ④人の些細な言葉に傷つき、いつまでも忘れられない。
 ⑤ネガティブ思考で本音を隠してしまうことから、人との関わりが苦手。
 ⑥他人に共感しやすく、相手から影響を受けやすいため、疲れやすい。
 ⑦一度にたくさんのことを頼まれるとイライラし、ミスが多くなる。
 ⑧生活のあらゆる場面で、苦しい思いや悲しい思いを感じることが多くあり、生きづらさを強く感じてしまう。
 ⑨職場では常に緊張していて、居場所がない孤独感を感じる。
 ⑩こうあるべきという思考や完璧思考がある。
 以上、まだまだ項目があるのですが、特に自分が当てはまるものを挙げてみました。HSPは、人によって度合いが異なり、またいくつかタイプもあるようです。ネットで自己診断ができるので、試してみるのもいいでしょう。

2022年12月16日

【No.13】教師の抱えるジレンマは、結局「学校のため」「生徒のため」という方向に流される

 本来は「教師の職務」として命令できないものなのに、「学校のため」「生徒のため」という名目のもとに、教師に過重な負担を強いられるものがある。それは、おもに「部活動」とか、普通科ならば「土曜講習」、職業科なら「検定補習」「会社回り」などであろう。学校によっては、これらをその学校の「目玉」として学校説明会などで宣伝したりもしている。
 これらは教師の「善意」によって支えられているが、その肝心の教師が「自由」ではない。「学校のため」「生徒のため」という教師の善意は「自主的なもの」ではあるが、その「自主的なもの」は事実上は「強制されたもの」に等しく、しかもそれらは、教師にとって「過重負担」でもあるのだ。つまり、教師の仕事をブラックにしている元凶は、一方では教師の善意による「自主的なもの」でありながら、もう一方で、それが同時に「強制」に等しく、前者と後者が同時に存在しているという、教師の仕事特有の「二重性」によるものである。こういう教師特有の「二重性」は、「できる人・やりたい人」の連帯だけを強めて、「できない人・やりたくない人」を排除して、教師という仕事の「ブラック化」を進行させていくことになるのである。
 特に中学校や高校の部活動の現実は、文科省の「部活動ガイドライン」が出てからも大きな変化はない。持病のある人、子育て中のママさん、親の介護で忙しい人といった事情のある人たちや、「私は絶対にできません!」という突っぱねる人は免除されるのだが、ふつうはそこから残った人たち、即ち、若い人だとか私のような特に専門分野がなく、時間があると思われて組みしやすそうな人間などは、なり手のいない顧問なんかに当てられてしまいます。このように、部活動の担い手が狭められているからこそ、「生徒のため」という教育的な「善意」がことさら強調され、部活動を担うことができる教師の数が限られているからこそ、その限られた教師の「善意」をことさら貴重なものとして称揚する風潮が出てくるのである。それは、具体的には「生徒ファースト」という形で表れてくる。生徒が部活動を望み「このように活動したい」という以上は、それに「応えてあげられる教師が徹底的に応えてあげる」ということが一つの「美談」として称揚され、教師たちが「広く薄く」「全員で担う」「本務の仕事」とは異なり、教師たちが「狭く深く」「限られた者で担う」「本務外の仕事」として、それを担う教師たちの「善意」や「自発性」がどこまでも純粋なものとして遍満していく。そして、教師たちの二極分化の間で、部活動は「仕方がないからやる」「自発的でもないし喜んでもいない」といった最も普通の人々の居場所がなくなってしまうのである。
 文科省は「部活動ガイドライン」の中で、「知・徳・体のバランスのとれた生きる力を育む日本型学校教育の意義」をことさら強調しているのであるが、今の学校教育のような従来型システム中では、特に運動部活動を支えるのにはもう限界にきている。もちろん私自身、運動部顧問をやってきた一人として、その教育的効果や学校の宣伝効果に有効なのは十分承知の上である。
 すでに「東京五輪」の項で述べたように、世界中のどこにも、日本の学校のように、教科の授業を担当している教師が資格や免許もなしに運動部を担当し、自分の経験則だけに頼って指導していることは絶対にありえない。教職員の意識改革も必要であるが、行政もいい加減、これまでの学校教育にすべてを頼るという考え方を改めない限り、学校のブラック化は解消されないのである。

2022年12月05日
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