ウッピー先生の「ぶっちゃけ教育論」P2

勤続33年を振り返る
 私が赴任した最初の単独商業高校は、比較的教職員の自治を重んじる、いかにも戦後民主主義の美しい神話を残した学校であった。しかし、バッシングの風潮や検定至上主義による学習内容のグローバル化などの時代の流れに乗って、教職員への締め付けが、それこそ「真綿で首を絞めるがごとく」進められていった。当時の旗振り役だった連中が、今頃は校長や教頭などの管理職になっている。自分よりも若めの連中が、校長にへつらって小賢しく立ち回っているのを見ていても、あまり感じがいいものではなかったことを覚えている。
 商業高校の沿革は、昭和末から平成にかけて経理科、情報処理科、国際経済科などの専門学科を次々と誕生させ、学習内容を高度化・専門化させてきた。それとともに、検定資格取得を最上段の目玉として、検定中心のカリキュラムにシフトさせていったのである。情報処理科の設置は、パソコンもスマートフォンも普及していなかった当初は、機器が使えるという目新しさから一時的に商業科の人気を押し上げた一面もある。しかし、公立高校に赴任してから30年以上たって5回も学校を変わったが、今から振り返ると、入ってくる生徒も変わったし、明らかに生徒のレベルも人気も下降トレンドを描きながら傾敗していったのがわかる。
 令和2年度、私学授業料実質無償化のあおりもあって、ついに、定員割れで2次選抜を行った商業高校および商業科は9校にも及んだ。特に学校の評判と絡んで定員割れがひどい高校は、受験者の出身中学を分析してみればわかるのだが、近くの中学からの受験者数が減って、成績上位者は比較的交通の便が悪い遠方からしか来なくなっているのが特徴である。私はこれを「ドーナツ現象」と呼んでいる。愛知県独自の特徴なのかもしれないが、学力(人気?)順に「普・商・工・農」という学校格差もあれば、「東高西低」という地域格差もある。

これからの商業高校の方向性を探る
 平成30年に打ち出された高等学校学習指導要領の改訂の中の商業編で、「商業の学びを継続するなどして公認会計士、税理士、中小企業診断士・・・・の資格職に就くこと及び商業の学びを基盤として経験を積み管理的立場の職に就くことも目指している」と謳ってある。これは、学習分野に対応した「将来のスペシャリスト」を意識したものであるが、間違っても、高校の教育課程の中でこれらを養成するという意味ではない。例えば日商簿記検定などの高度資格取得を意識して、高校1年生で11月に日商簿記検定3級を受けるとなるとかなり急ピッチで授業を進めなくてはいけなくなる。これは生徒や教師にとってもかなり負担で、夏休みが終わったところで「こんなはずじゃなかった」といって中途退学者も出てくる。かつて、事務処理向けのプログラム言語としてCOBOL85を教えたことがあるが、高卒が会社でプログラムを作成して仕事をするということはまずありえないし、商業高校でエンジニアを養成しているわけではない。これからは主流になると思って買っていたスマートフォンはAndroidだが、今は逆転して、若い人が買うのはiPhoneである。情報処理分野は時代の流れに沿って流転していくもので、10年先、20年先のことはわからない。だから、ある特定言語のプログラミング教育に傾倒することについては、私は反対の立場にある。せいぜい頑張ってもITパスポートまでであろう。やはり、カリキュラムを作成するにあっては、部活などの課外は別として、日商や国家試験などの外部団体が行うものについては、いったん外に置いて考える必要がある。
 さらに、学校が目標として目指しているものと、企業が求めている人材との間には「ズレ」が生じているということである。進路指導では、履歴書の検定・資格取得欄に、一字一句間違えないようたくさんの取得資格を書くように指導するのだが、企業の人事担当者は、商業高校を出ていない限り「日商」や「全商」の区別すら知らない人がほとんどである。履歴書や成績証明書などを見るのはもちろんのことだが、面接では、志望動機や将来の目標・夢などを熱く語れるかを見ているし、取得した資格が多くても、すぐに会社を辞めてしまう者はダメで、長く勤めて会社に貢献してくれる人材を求めている。だから、皆勤、生徒会活動、部活動実績などはかなり有効なポイントになっている。

商業高校として、アイデンティティをどこに求めるのか
 私が個人営業をしていた1年半の間に気づいたことは、企業の店員のミスの多さである。例えば、備品を購入したときに請求書や領収証の金額が間違っていたり、商品が間違った住所に届いたり、〇〇ト運輸に商品を持っていくと、処理する人によって商品サイズが違っていることも度々あった。60サイズは縦・横・高さの合計は60cm以内、重さは2kg以内という規定があるのだが、年配の人はきちんと重量を量るが、若い人は勘に頼っている人が多い。(私は得することが多いので、なるべく若い店員に任せた)
 「凡事徹底」という言葉があるが、これは、なんでもないような当たり前のことを徹底的に追求し、他の追随を許さないレベルまで高めるという意味である。働く現場において、その人が明らかに他の卒業生とは違う商業高校卒業生としてのアイデンティティとは何なのかというと、「事務処理が迅速で的確である」「ビジネス文書の形式と作成の基本を知っている」「電卓・ワープロの入力はブラインドタッチ」「人間関係と話し方・聞き方などのビジネスマナー」「Excel・Wordその他officeなどのアプリケーションが一通り使える」などであろう。採用した企業の研修担当者から、商業科を卒業している人は、基本を知っているから吸収が早いというように言われなければいけない。

●時間管理もアイデンティティの一つ
 以前、勤務していた商業高校では、英語の授業で行った単語の小テストで、基準点に達しないものは、朝・昼休み・業後などに職員室の前の廊下に来て追試を受け、不合格にったものはさらに基準点を上げて受かるまで追試が続くということをやっていた。進学校や国際ビジネス科でやるならまだしも、全学年全クラスでやっているのである。こういうやり方に私は違和感を持っている。生徒も自分の時間を確保するために、私が教えている授業に単語帳を持って来て、隙あらばそれを開こうとする。やはり、授業に関することは原則、授業の中で完結させるべきであろう。そういう私も、検定週間や遅進者指導では補習をやるし、問題集で予定の箇所まで進んでいない者に対しては宿題も課す。それは一斉授業という授業形態だからである。しかし、「一通り教えてあとは宿題」というように無責任なことはやらない。問題を解くという時間も含めて授業内でやることが原則だ。それは、時間を守らせたり、提出期限厳守など教師側が生徒にも要求していることだし、実社会では「石を投げればブラック企業にあたる」と言われるほどサビ残(サービス残業)が横行している。働き方改革という観点からも、職業高校では時間管理は大切なことである。

●国際ビジネス科を出て、外国でビジネスができるほど語学能力が身についているのか?
 私が商売をやっている間、暇なときは英語の参考書を開いて勉強していた。高校の受験参考書5冊を学習したところで、「聖書物語」「仏教聖典」(ともに対訳)は5~6割程度は理解できるようになった。一度頭に入れた単語も、使わなければ先に覚えた単語から順次忘れていく。だから、一度覚えた同じ単語を辞書で何度も引き直すことになる。例えば、illiterate,assault,distort,corruptなどの単語の意味を一体どれだけの人が知っているのだろうか。たとえ例文の中で覚えたとしても、センテンスが違えば思いつかない。さらに、参考書が変われば別の外国語を習っているような感じで、新出単語・熟語が頻繁に出てくる。まさに英語を学習するということは、果てしない無限のループの中にいるようなものだ。国際ビジネス科を出たからと言って、外国でビジネスができるほど語学能力が身につくわけではない。やはり、商業高校では受験英語をレベルダウンしたものではなく、実用英語を教えるべきであろう。名詞や形容詞をある程度知っているならば、大抵のことは中学校レベルの動詞で表現ができる。例えば、「醤油をかける」を英語に直すとして、これを英語型の日本語に翻訳すると動詞の「かける」が引っかかる。ここで、発想の転換力が必要になる。Sprinkleでもpour overでもいいのだが、わからなければuseを使えばいい。同じく、「押収する」はconfiscateだが、take away を用いても確実に意図は伝わるのだ。

新しいカリキュラムと学科編成の考察
 「富士山は頂上も高いが裾野も広い」というが、裾野をもっと広くしてあげなければ頂きは高くならない。頂きを高くするのは大学などの高等教育機関以降のことであり、高校では裾野を広げてやることに注力した方がいい。専門学科の特質を中心にして考えるよりは、「総合ビジネス科」として1つにまとめて、カリキュラムは、マーケティング分野、マネジメント分野、会計分野、ビジネス情報分野などすべてにわたって領域の幅を広げて考えた方が作りやすいし、ビジネス情報分野の科目のほとんどは実習科目なので、学習内容を達成するほどのPCを公立高校が保有しているのかが疑問である。
 専門学科の中では、国際ビジネス科というのは特殊であろう。3年間で、英語でスピーチができるまでに語学能力を高め、その集大成として海外研修にぜひとも行かせてあげたい。簿記も情報処理も嫌いになった生徒が集まる吹き溜まりになってはいけない。
 検定制度は、目標を持って段階的に知識・技能を習得させるにはいい制度である。1年生では、「珠算・電卓実務検定2級」「簿記実務検定2級」「ビジネス文書実務検定2級」「情報処理検定2級」「秘書検定3級」などの検定基礎科目に挑戦させて、商業の基礎的な知識・技能の充実を図りたい。何よりも1年生では「格差をつける指導」から「自信を持たせる指導」に切り替える必要がある。
 私案であるが、以上の考察を踏まえて、以前勤務していたことがある単独商業高校を例にとると、1点目は、学科編成は「国際ビジネス科」2クラスと「総合ビジネス科」4クラスにして、国際ビジネス科の特殊性を考えて「括り募集」ではなく「分離募集」にする。2点目は、総合ビジネス科は2年時より「会計コース」2クラスと「情報コース」2クラスに分け、授業展開は、各コース固定でもいいし、学年で学力的に均等なクラスを4クラス作り、コースに分かれるときだけ分割履修にするという方法も考えられる。いずれにしても、分割履修が多くなり過ぎると時間割編成が大変なので注意が必要だ。ともかく、カリキュラム編成はsimple,slim,smart(3S)に考えた方がいい。新高等学校学習指導要領の商業編は171ページにも及ぶものだし、私のような凡人ではとても読み切れない。日本の学校の原点は寺子屋であり、そこで「読み」「書き」「算」を習っていたが、これを現代風にアレンジすれば、これに「ビジネスマナー」と「コンピュータ」を付け加えたものになる。単純明快である。

※愛知県では令和5年度高校入試より、商業高校の学科名を、「総合ビジネス」「グローバルビジネス」「地域ビジネス」「会計ビジネス」「ITビジネス」に変更した。これらのほとんどは、旧学科を引き継いだもので、今まで通り高度資格取得を頂点として専門分化をするならば、中身は従来型とそう大差はないであろう。

アクティブラーニングは必ず失敗する
 新学習指導要領の中の一つのキーワードとして「アクティブラーニング」というのがある。これは、教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称ということである。私はこの定義をみて、かつてNHKの教育番組で放送された「ロワゾーの三ツ星レストラン」を思い出した。この番組では、シェフロワゾーが自分の経営するブルゴーニュ地方にあったレストランに小学生を呼び、様々な体験を通じて働くことの喜びと誇りを伝えるというものである。初めにレストランの中にある、ダイニング、食肉加工場、厨房、ワインの貯蔵所などをグループごとに自由に探索させ、各場所には熟練されたスペシャリストがいて、子供たちの質問に巧みに答えていく。子供たちの目は興味津々で、目をキラキラと輝かせながら話を聴いている。その後、グループ発表があり、料理長ロワゾーが解説を加えていく。最後に、みんなで蛙のソテーを作り、家族とともに食べている映像はとても満足気である。そして、ロワゾーが三ツ星に対する想いや料理に対する自分の哲学を述べて締めくくるというものである。
 文科省のメンバーは、一体どこまで頭の中がお花畑なのか知らないが、おそらくこういったものをイメージして施策を打ち出したのではないだろうか。もともと、寺子屋から発展してきた日本の学校教育文化と欧米のそれとは違うし、大学の研究室や役所のデスクワークから出てきたものと、学校現場の認識との間には「ズレ」がある。現場の一教師がこれを担当するとなると、教師の知識や技量もさることながら、金銭のことも含め、その準備にいったいどれだけの労力と時間がかかるかということも考えなければいけない。
 それまでの画一的で型にはめた教師教授者中心の注入主義教育のスタイルから、子どもの関心や感動を中心に、より自由で生き生きとした教育体験の創造を目指そうとする試みは、すでに大正時代にもあった。これと発想や中身はさほど変わらないであろう。ただ、本来こうした教授法は、授業担当者が教科の内容に照らし合わせて、生徒の実態や状況を踏まえながら採択するものであって、教授法の一つを大体的に宣伝し、一律にどのような教科にも当てはめようというやり方に私は反対である。おそらく、課題研究にしっぽを付けたか毛を生やしたものぐらいになるだろうということは、担当したものから見ればおよそ察しの付くところである。「生徒が動いて学びなし」である。

観点別評価は、日本人固有の誤った唯物的人間観である
 観点別評価とは、「生徒にどういった力が身に付いたか」という学習の成果を的確に捉え、教師が指導の改善を図るとともに、生徒自身が自らの学習を振り返って次の学習に向かうことができるようにするための評価方法である。具体的には、新学習指導要領の各教科等の「目標」「内容」の記述を踏まえて、観点別学習状況の評価については「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」の3観点に整理して行うものとする。・・・・こうした冗長した文章は読むに耐えないのだが、いかにも、大学の研究室や役所のデスクワークから出てきたものという感じである。
 さて、これを現場におろしたら実際にどうなるのかということである。以前、勤務していた単独商業高校では、どの学校よりも先んじてこの観点別評価を導入した。当時は4観点あったのだが、例えば、ビジネス情報は、テスト以外の「その他の評価点」40点分の内訳として、①関心・意欲・態度(10点)→課題の提出物 ②思考・判断・表現(10点)→提出物の内容 ③技能(10点)→実習 ④知識・理解(10点)→小テスト及び授業への取り組み、というように強引に成績評価の中へ組み込んだのでる。これで何が変わったかというと、成績処理の業務が煩雑化して周辺業務が増えたのと、評価のためにだけ必要のない小テストをやって授業の進行を遅らせたりと、改善されたものは何も見当たらない。とにかく、教師が評価のための「記録」に労力を割かれて指導に注力できないのである。
 人は、他人の行動や特徴を見るとき、この人の知識・技能はBで、思考・判断はAで、あの人の態度はCでといったように、まるで製品分析でもかのように人を評価しているのであろうか?・・・・違うはずである。知識があるからこそ優れた思考・判断ができて、主体的に学習に取り組む意欲があればこそ表現に磨きがかかるのである。人間はそれぞれの特性が有機的に絡み合って一つの個体としてできているのである。自動車を分解してしまったらもう役に立たなくなるでしょう?統合すればこそ車として走れますけれど、分解しただけなら、それはもう、ただのゴミですし、ガラクタになってしまいますよね。私はつくづく、日本人は「モノづくり」はうまいけれど「ヒトづくり」は下手な国民だなと思うことがよくあります。
 それと、成績評価は、「手段」ではなく「目的」のようになってしまっているところがある。私は、かつてのように、ペーパーテストのような数値としてデータ化できるものを中心にして、平常点は、例えば成績全体の10~20%の中で平均6割にするというシンプルのやり方でいいと思います。平常点は、先生によって観点の重みが違い、主観が入ることは当然のことなので、平均を6割にして足並みをそろえるということで落ち着くと思います。成績評価も、カリキュラム編成と同じようにsimple,slim,smart(3S)に考えた方がいいのです。