学校改革と徳育の重要性

*ウッピー先生の学校改革案
 愛知県では「併設型中高一貫教育制度」の導入について、第一次・第二次の導入校や、その教育内容、教員配置、入学生徒の選考方法、併設中学校の通学区域等の基本的な考え方を導入方針として取りまとめました。その中で「探求学習重視型の中高一貫校」の対象となるのは、令和7年度開校の4校、その翌年開校の3校、合わせて7校で、いずれも県内有数の進学校である。入試内容は、適性検査では受験テクニックや知識量ではなく「思考力」「判断力」「表現力」「課題解決力」を測り、面接では「探求心」「共感力」「寛容性」「粘り強さ」「学び続ける意欲」などをみるとしている。
 こうした選抜方法は、入試制度がどのようなものに変わっても、ある母集団から特定の資質や能力を持った者を選別する仕組みであることには変わりがない。県外の動向をみると、一生懸命に努力したが受からないという「逆転現象」が発生したり、新しい入試制度に対する受験テクニックを教える学習塾が流行りだしたそうである。
 問題なのは、選抜方法がどうであれ、本来無限の能力を有する人間を、一度の入試で「受かる子」「受からない子」に選別していいものかという根本的な見解がある。そもそも、ペーパーテストや一度の面接で人間の能力なんか測れるのかという疑問も残る。人間はそんな機械仕掛けのようなものではないからである。ある人が将来、何に興味を持ち、何を転機として考え方が変わり、努力して能力を伸ばすのかということは誰にもわからないのだから、「選別する」という考え方を捨てて、向学心ある者は原則としてすべてを受け入れ、機会を与えて、入学した生徒を「いかに伸ばすか」という方に重点をおいた方がいいのではないのか。それが公教育本来の在り方だと私は思う。こうした「選別する」という発想は、「格差社会」「階級社会」「差別社会」を助長しかねないからである。
 私的な観点からではあるが、公立校普通科はおよそ進学実績ぐらいしか特徴がないし、高校への進学率は98%以上もあるのだから、小学校・中学校と同じく「学区割」にしたらどうか。ただし、学校教育法には「高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達及び進路に応じて、高度な普通教育及び専門教育を施すことを目的とする」という規定があり、義務教育として行われる「普通教育の成果」を強調しているので、公立学校はすべて「義務教育修了認定試験」ないしは「高校入学資格検定」を実施して「足切り」をやったらどうなのか。要するに、バカロレア(仏:Baccalauréat)の中学校版、ないしは昔でいう「大検」の中卒版というわけである。
 また、日本の大学数は令和4年で807校、大学進学率は56.6%で過去最高を記録したことは、一見よさそうなことだが、少子化が進む中でこれは多過ぎるのではないか。教育の機会が増えたのはいいことだが、実質が伴っていない。このことが労働市場の「人手不足」を招いているともいえる。高校へ入学しても、手ぶらで来て、教室で寝ているだけという者も多数いる。こういう若者は、目的意識や学習意欲がなく、ただ時間を浪費しているだけなので、これは本人にとっても不幸なことではないのか。「みんなが行くから自分も行く」「友達と会話をするため」「何となく」と本人達は言う。これらは「格差社会」「階級社会」「差別社会」が生み出している社会現象の一つともいえる。
 高度経済成長期、中卒の就職希望者は「金の卵」といわれて、めったに手に入らない貴重な人材として大切にされていた。世の中にある職業は、クリエイティブな職種を除けば、中卒や高卒でも仕事をしながら覚えることができる単純な作業がざらにある。だから、社会に出て即戦力になる人材を育成するために、中卒からでも入学ができる「職業訓練校」を作ったらどうか。ドイツのハウプトシューレ(Hauptschule:基幹学校)がいい例である。
 あと、大学は「教養教育科目」を廃止して3年制にすればいい。ヨーロッパの大学のほとんどは「専門教育科目」だけである。余剰になった教職員は、中学・高校を30人学級にしてそこへ加配することも考えられる。そうすれば、中・高・大の連携教育が可能となる。

*徳育の重要性
 今の学校教育に欠落しているものを一つ上げるとすれば、「徳育」であろう。非行・犯罪の起因となる多くのものは、この「徳性の欠如」によるものである。今回、愛知県の「中高一貫教育方針」の策定でもそうであるが、導入校がどうなの、教育内容はどうなの、選抜方法はどうなのと、知育に関する方便的・手段的な策定の一点張りで、「徳育」に関するものは一つも見当たらない。教育標語に「知・徳・体」というのがあるが、優先順位から言えば「徳・体・知」ないしは「徳・知・体」が正しいのではないのか。
 高い知識や技能を与えるというのは、いわば「弁慶の七つ道具」を与えるのであって、その七つ道具を渡す前に、人間そのものを高めて、弁慶のような力強い人間に育てなければならないというのが「徳育」の考え方であります。人間そのものを高めないで七つ道具を渡しても、役に立たないばかりか、時にはそれがマイナスになるという場合も起こりうる。現在、我が国の教育は、人を育てるよりも、知識・技能という道具を与えることが中心になってはいないだろうか。即ち、第二義なものであるはずの知識・技術教育を第一義のように考えて、第一義であるべき人間そのものの教育が疎かにされているのではないかと思うのである。
 幕末のペリー来航以来、何はともあれ欧米に負けない近代文明を一刻も早く作るべく「追いつき追い越せ」ということで大学を作り、その予備校として高校を作り、さらにその予備校として中学校を作り、その基礎教育をやるために小学校を作った。つまり、明治の学校教育は、上は大学から下は小学校まで、西洋近代文明の模倣・再現に役立つ知識・技術を早く習得させるということになったわけです。その一方で、「人間を養う」「徳性を磨く」「人間の尊厳を教える」という「道徳教育」がなおざりにされていったという経緯がある。
 人間には、これがあることによって人が人であるという本質的要素、即ち「道徳性」「徳性」というものが第一義にあります。これに付随してくるのが「知識」「技能」、さらに徳性に準ずべき第三の要素が「習性」「躾」であります。単なる「知識」ならば大脳の末梢的な断片のようなもので、これに物事を深く見通す判断力が伴えば「見識」になります。さらに、現実の困難に直面し、それを乗り越えて決断力・実行力が加われば「胆識」となります。今の格差教育の中で育った「学校秀才」というのは、頭でっかち、理屈屋、ひ弱、魂の抜け殻で、人間修養をしていませんから、「雑識」は知っていても「見識」や「胆識」までには至らないわけです。だから、たとえ個人的な成功を収めたとしても、それが社会の変革や生成発展までには伸展いたしません。
 火鉢屋の丁稚奉公から始まり、わずか5人でソケットの製造販売を着手してから一代で松下電器産業(現・Panasonic)という家電王国を築いた「松下幸之助」氏も、就職難の中でやっと採用された、赤字続きで給料も遅配するような零細企業を離れて、京セラを創業、一流の電機メーカーに育て上げた「稲盛和夫」氏も、決して「学校秀才」というタイプではありませんでした。彼らは、全従業員の物心両面の幸福を願い、人類・社会の進歩発展に貢献した「道の人」であります。
 今の学校教育システムでは、全体の流れや作業手順が定まっている定型業務をそつなくこなしていける人材を育てるのには向いています。しかし、世にいう偉人・大物というのは、素養も特性も様々な雑駁とした集団の中から突如として現れるのであって、格差教育の中で育った学校秀才のエリート集団からはなかなか現れません。人間というのは、まことに摩訶不思議な生き物であります。

*家庭教育の重要性
 一般に道徳感情というものは5~6歳頃から芽生えるとともに、知能として基本的な「理解力」「記憶力」「想像力」「注意力」などは7・8~12・3歳頃に旺盛になります。そして、人間の徳性・性格は16~18歳で出来上がります。そうしてみると、昔日、数えの16歳をもって「元服」としたことは、今日の科学的根拠からいっても理にかなっています。そこで、小・中学時代の教育は、人間の徳性を養い良い躾をするということが基本で、知識や技術はその付けたりでいいのです。そして、大体16~8歳で人間が出来上がって、それからあと大学・専門学校へ行く。ここでは、今までにできた性格的・人格的素養の上に、知識や技術を本筋にして教えてよろしいのです。これが学校教育体系の正しいあり方だと思います。
 一方、家庭教育では、子供の人格が育つには、母親ももちろん必要ではあるが、より以上に父親も必要であります。「愛」から出づるところの細やかな配慮によって子供は育つといわれますが、『論語』や『孟子』によれば、それでは足りないのであって、人間が万物の霊長として育つためには、さらに「敬」が必要であると書き記されています。つまり、かわいがって面倒を見るだけなら犬や猫と変わらないということです。
 人間である限り、幼少であればあるほど純粋に「可愛がれたい」「愛されたい」という「愛」を欲すると同時に、「敬」する対象から自分が「認められたい」「励まされたい」という本能的要求を持っている。この「愛」と「敬」が相まって初めて人格というものが出来上がっていく。その「愛」の対象を母親に求め、「敬」の対象を父親に求めるのです。父親のいない場合には、その二つが皆、母親に集まるから、母親は非常に難しいことになる。もちろん、だからといって、一方は「愛」だけで、一方は「敬」だけというような区別はありません。子供にとっては「優しい母親」が必要であると同時に、「頼もしい父親」が必要なのであります。
 ところが、不幸にして世の父親族というものは、家庭を誤解して、自分たちは外に出て終日働いて疲れて帰ってくるから、家庭というところは、苦労な世間から解放されて、やれやれと気儘も許してもらえる「安息所」と考えている。まあ、最近では「ワークライフバランス」という考え方もありますが・・・。父親が、夜更かしをして朝寝をしたり、酒を飲んで怒鳴り散らすなど、ろくな所しか子供に見せない。子供からすると、父親はもっと偉くあって欲しいし、まだ幼稚ですから、理性的には考えませんが本能的に失望することになる。こうなると、父親の責任たるや実に重大であります。そこで、妻は子供のために夫を立派な父親にするよう、また夫の方も妻を立派な母親にするよう気を配らなければいけませんが、「亭主飼育」というのは以ての外です。世の母親が、亭主の不満を子供に訴えるということくらい子供にとって悪い影響はない。亭主が倅(せがれ)に母親の不満を鳴らすのも悪いが、母親の方はもっと悪い打撃を与えるのです。
 植物でも人間でも同じことですが、鍛錬陶冶しないで立派に成長することはありません。甘やかしたらすべてダメです。植木を栽培するにしても、伸びるままに蔓を伸ばしておいたら皆ダメで、適当な時期において剪定し枝葉を払わなければなりません。そうして花でも実でも、果断・果決がないと良い花をつけ美果を結びません。だから、人間にとって「躾」「習慣」というものが大事になってくるのであります。こうした「良い躾」「良い習慣」と徳性が相まって一切の才智芸能が花開くのです。