教員の働き方改革と組織改革

*教員の働き方改革
 全国教員採用試験受験者数(倍率)を、2012年(H.24)と2024年(R.6)で比較してみると、小学校 59,230(4.4)→36,192(2.0)、中学校 62,793(7.7)→39,336(3.3)、高校 37,935(7.3)→21,716(5.1)で、ここ12年減少の一途をたどって教員のなり手不足が深刻になってきています。原因の主たるものは「教員の多忙化」と「学校のブラック化」です。各自治体は、正規採用者数の増加だの、人材バンクの活用だの、年齢制限の緩和だの、方便的・手段的に何かをやろうとしていますが、根本的なところが変わらない限り何も改善されないでしょう。公立学校という官僚組織は徹底的に追い込まないと改革を始めないので、このことが教員の働き方改革を進めるうえで学校改革の転機になればと私は考えています。
 教員の多忙化は、平成4年から段階的に導入された「学校週5日制」当たりが起点で、当時の導入に関して教職員に行われたアンケート調査では「条件付き賛成」が多数でした。この「条件付き」の理由が公表されていませんが、これはおそらく、土曜日がなくなることによって「教員一人当たりの授業担当時間が減るのでは」という淡い期待や、逆に「授業不足分を土曜補習に当てられるのでは」という不安や、部活本命の顧問が「半日練習を一日に切り替えるのでは」という憶測があったのであろうと思います。しかし、フタを開けてみれば期待は裏切られ、土曜日の2・3コマ分が月~金の間に割り振られ、周知のごとく周辺業務も増えて今日に至ってます。完全週5日制の実施に伴い、私自身、毎回教材を自宅に持ち帰り「風呂敷残業」をやることになりました。生徒にとっては「ゆとり教育」かも知れませんが、教員にとっては「ゆとり」ではなかったのです。不可解なのは、商業科教員は普通科教員より2コマ多く授業を担当していますが(県独自かも)、これはおそらく、実習(分割授業)が多く実習助手もいるのだから授業はラクだと考えられて「値踏み」をされたのか、簿記会計などの習熟度別分割授業は加配の対象ではないという「サバ読み」をされたのだと思います。自治組織が強かった頃は、次年度の教員定数を労使の最も大きな争点として職員会議で取り上げていましたが、おそらく今はどこの学校もやっていないのでしょう。
 「教員の多忙化」「学校のブラック化」の具体的な実態は、このHPを読んでいただければおよそ理解していただけるものと思います。その中には、現場のコンセンサスを得ずに導入されたものや、お門違いの仕事のバラマキや、よかれと思って始めたことが慣例化されたものなど様々ありますが、それが本当に必要なことかどうなのかについて、改めて根本から見直す時期が来ました。「build & build」や「scrap & build」ではなく、むしろ「scrap & scrap」で考えてもいいくらいでしょう。ここで一つの指針を簡潔に示すならば、「ムダ、ムリ、ムラ(排除すべき3M)」を省き、「simple,slim,smart(目指すべき3S)」に考えることだと思います。もう一度スタート地点に戻って、原点・原理原則に従って、単純なことをベースに考えていけば解決できるものと私は考えています。
 政治家も教育行政も、もし本気で問題に向き合う覚悟があるならば、最も効果が期待できるが最もやりたがらない「30人学級」を実現すべきでしょう。席替えをしたあと、教員一人が座席表なしで目が届く範囲というは最大30人だからです。クラス定数を国際比較してもOECD加盟国中、日本と韓国がダントツに多い。そして授業担当者は、チームティーチングや習熟度別分割授業など小賢しいことを考えなくても、実習などを除き、原則、一人が責任を持ってクラスを受け持つべきです。

*学校の組織改革
 「ワンマン社長」は通常、マスコミから"独裁者"のように思われ嫌われますが、学校のトップである校長は「ワンマン」でいいと私は思います。私が言っているのは「専制(先生)君主のようになれ」と言ってるわけではありません。『電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、すべての責任は自分にある。学校に関係することで、何か失敗なり落ち度なりがあったら、全部、校長の責任なのだ』と思うくらいの熱意や気魄を持ってやって欲しいということです。一方で、諫言をしてくれる人、要するに、耳に痛いことを言って諫めてくれる人が側にいなければいけません。そういう人を持つためには、すでに出来上がってしまわないこと、我(が)が固まった状態にならないことが大事です。もちろん、最終的にはトップが自分で責任を取り、決断しなければならないのですが、「他の人の意見を聞かない」という態度は、基本的には間違っています。トップは「いろいろな意見をいったん斟酌したうえで物事を考える」という癖を持った方がいいのです。あと気を付けなければならないのは、内部管理をすることが仕事だと思っている人が実に多いということです。マネジメントを「経営管理」と訳しますが、人を管理したり、書類を管理したり、要するに管理業務だけと思っている人が多く、学校の中の管理ばかりしている。そういった職場では、書類が増えたり様式が変わるだけで、職員の思考が停止してしまい、そこからは何も生まれません。
 一方職員側も、学校の名のもと「一人一人が経営者」の精神を持って衆知を集め、『全員参加型の学校運営』に切り変えなければなりません。働く人の意見を職場に反映させることのみならず、教育という社会貢献活動を通じて我々専門職が一つになり「学校や教師主体の現場主義」を推進していかなければいけません。具体的には、生徒に最も近い「学年団」を強くしなければいけないでしょう。どの教職員も学年会に所属していますので、年度末には一度、分掌や学年の枠を取っ払って様々な領域の問題点や改善策を忖度せずに全て洗い出し、それを職員会議に提出する。さらに、これらを各分掌・学年ごとに持ち帰って、再び職員会議で来年度に向けて改善案を出す。そうすることによって、初めて他人の意見や全体の意向を知ることができます。学校では自分のあずかり知らぬところで物事が決定し、突然出てきたことに戸惑うことがあまりにも多過ぎるのである。だから職員も「何故だか知らんが、決まったことだから・・・」というような感じで「もの言わぬ子羊の群れ」になってしまっている。これがよくないのです。もし民間でいう「家業」であるならば、従業員に「一生懸命頑張ってくれ」「働いてくれ」と言っても、経営者一族の資産を増やすために従業員を働かせることになるので、共鳴や賛同してくれる雰囲気にはならないでしょう。それと同じことです。社会の公器である学校は「家業」ではありませんから、まずコンセンサスを持ったうえで、誰もが「自分たちの学校だ」と思って懸命に働く雰囲気を職場に作らなければなりません。そうでなければ「我々職員は、お互いに共通の目的を持った、共に同じ職場で働く同志である」という気持ちにはなれません。そういうことです。

*ICTの活用について
 文科省は「学校における働き方改革」の中の一つに「ICT(Information and Communication Technology:情報通信技術)の活用による校務効率化の推進」を掲げています。ICT環境を整備することによって教員の長時間労働を解消し、働き方改革を実現する上で極めて大きな役割を果たすことを目標としています。しかし、これを現場サイドから見ると、敷地面積の大きい大工場ならまだしも、学校ぐらいの規模であるならば、むしろアナログ的に管理した方が効率的なことが多いように思われます。我々教員は主に人間を相手にしているのであって、オフィスワークのようにいつもパソコン相手に仕事をしているわけではありません。特別教室を予約するぐらいなら、PCをわざわざ立ち上げなくても、ホワイトボードを使った方が管理しやすいといったことがあります。ですので、導入に当たっては、デジタル化による管理効率ばかり強調せずに、現場の動線を意識して考えないといけません。
 また、電子黒板やパソコン・タブレットなどのデジタル機器を使用してインターネットを介した学習支援ツールの活用などを行う「ICT教育」は、導入した意図を明確にしておかないと「生徒が動いて学びなし」といった雑駁とした状況になりかねません。私がよく見る「Try iT」の授業動画では、ベテラン講師陣があらかじめ準備してきたものをプロジェクターから黒板に投影し、解説をまじえながらチョークで必要事項を書き込むといった、すごく丁寧でわかりやすい授業を効果的に展開しています。もし、これを今の学校現場でやるとなると、生徒を実習室に移動させるか、職員室のロッカーに保管してあるパソコンを鍵で開けて取り出し、準備室にあるプロジェクタースクリーンを教室まで運び、学校の壁にあるインタフェースを使用するために鍵を借りて開けて配線をするといった手間が必要で、準備を終えるまでに最低10分はかかります。これならば、従来通りチョークを使って黒板に書きながら説明をするといったアナログ的手法の方ががいいということになるでしょう。ですから、どの教室にも常時、プロジェクターやパソコンが用意してあり、USBを差し込んでONにすればいつでも使えるような環境にして欲しいわけです。
 何も、多用途・多機能を追求して電子黒板を購入しなくても、現場では「Try iT」レベルの授業ができれば十分なのではないでしょうか。「ICTの活用」云々を語る前に、まず誰もが何時でもICTの利用価値を共有できるような環境を整備することが先決であると私は考えています。

※「Try iT」には、中学版/高校版があります → https://www.try-it.jp/k/
※黒板用プロジェクターは、「ワイード」という商品で「SAKAWA」から販売されていることが「がっちりマンデー」で紹介されました。愛媛県立高校では390台導入。愛知県では旭陵高校が導入。1台約50万円 → https://www.sakawa.net/wiiide/

*教員の働き方改革は、人事制度の刷新や組織改革から始まる
 学校には子供(生徒)という一種の「未開」がたくさんいるので、教師は経験や感覚などの「身体性」を大切にしなければならないことは了解しやすい。しかし、現場の教師が管理職になったり教育行政に入った途端、目の前から生身の子供たちがいなくなり、「身体性」を切り捨て、法的・理念的な世界に向かって「頭脳」中心となります。「教員の働き方改革」が一向に進まない原因は、まさに教育行政・管理職と教育現場・教師との断絶にあります。私はこれまでに、ある人が管理職に昇格する前と後とでは、まるで別人格のように、言っていることが真逆であることに遭遇したことが何度かあります。
 「教員の働き方改革」をネットで検索すると、実に多くの検索結果がヒットしますが、その多くは、文科省をはじめとする官公庁や教育研究機関から出されたものや有識者の意見などがほとんどで、肝心の当事者である学校現場にいる現職者からの発信がどこにも見当たりません。内容的には、現況の分析や抽象的な文言の羅列だけで、事例集などを見てもどこかしっくりしません。
 教育行政が何らかの施策を打ち出す場合、一部の校長や有識者の意見を聞いたり、たまにはアンケートや文書を提出させて現場を把握しようと務めているのかも知れませんが、それが全体の総意であると思ったら大間違いです。それは彼らの頭の中のイメージとしてある理念としての教師・学校を前提として考えているだけのことであって、それはつまり、自分を基準としていることだが、自分ならできるということで、教師が自分で考え自分で判断して行動しないことではダメだと言っているのに等しいわけです。自らの既得権限はしっかり確保しておいて、自分を安全圏においてものを言う人を基本的には信用してはいけません。「改革」のきれいごとを言う人は、我が身を不可避のリスクにさらすこと以外、自らの呼びかけに応じる人々と連帯することはできないのです。教育行政が何らかの施策を打ち出す場合、その中に現場の最前線に立つ現職の教員が一人も参画していないという仕組みにも問題があります。これは日本の労使関係の近代化・民主化が遅れている一つの要因でもあります。結局、生徒の実情や教師・学校の現実から出発しない教育改革は、すべて失敗に終わらざるを得ません。 
 各学校における職員会議の役割は、校長を中心とした運営委員会(企画委員会)が決めたことの「意思伝達機関」としてではなく、やはり、最高の「意思決定機関」として位置づけるべきでしょう。先述したように、まず誰もがコンセンサスを持ったうえで「自分たちの学校だ」と思って懸命に働く雰囲気を職場に作らなければなりません。そのためには、職員一人一人が経営者マインドを持って衆知を集め『全員参加型の学校運営』に切り変える必要があります。真義・真理に照らして適切でないもの、現場サイドから見て妥当性に欠けるもの、理不尽な要求などに対しては、勇気を持って「NO」と言えるようなストッパー(安全弁)が必要です。これが「教員の働き方改革」を進めるうえでのまず第一歩です。校長のリーダーシップに期待されている課題の一つは、仕事における教師集団の共同性の回復でしょう。
 一方職員側も、働く人の意見を職場に反映させることのみならず「学校や教師主体の現場主義」を推進していくために、まず各学校に「職場組合(有志)」を作ります。そして毎月、地区ごとに職場の代表が集まって定例会を開き、そこで情報交換や教育行政の施策に関する意見を交わします。これが我々職員のいわゆる「セーフティネット」になります。さらに、教育委員会の中に職場組合の出先機関を作り、各地区の支部の代表が集まって行政側と様々な施策に関する折衝を行い、学校現場との認識のズレを調整します。このように、行政側も組合側もそれぞれが独自の立場と役割を持って、お互いに対立しつつ調和しながら生成発展していく姿こそが社会の理法にかなったものといえるでしょう。
 あと、管理職の採用に当たっては、選考基準を明確にして「一般選考」を実施すべきです。また教頭は、職場を代表する者として必ず一人は職員の中から選出すべきでしょう(国立はそう)。こういった、人事面での制度改革も必要になるかと思います。

*「scrap & scrap」で、改革を進める
 教員の多忙化や学校をブラック化させる主な要因には、「現場のコンセンサスを得ずに導入されたもの」「お門違いの仕事のバラマキ」「よかれと思って始めたことが慣例化されたもの」などが挙げられますが、とりわけその中で最も多いのが「現場のコンセンサスを得ずに導入されたもの」です。
 例えば「教職員評価制度」は、教委・管理職による教員の一元的な管理を目標としたもので、教師たちを「教育マシーン」という一律性のもとに支配し、教師一人ひとりの教育や学校や子供たちへの「夢」「献身」「可能性」などを軽量化・数値化して「頭脳」のコントロールの支配下に置こうとするものです。こうした企業経営的な効率化を企図する人事管理は、結局、教育を窒息させることにならざるを得ません。なぜならば、教育という営みには、「自由」の感覚や、「頭脳」のコントロールに服さない「思い込み」「錯覚」「勘違い」など人間が本来有するファジーな領域も不可欠な要素だからです。教師としての能力は、おかれた環境や競り合う中で、変幻自在に引き出されたり、隠匿されたり、抑圧されたり、発見されたりする「関係的属性」によるものであって、それが「評価」に加えられるようになると、教師の能力も、意欲・態度という情動面も、個人に固定的に備わっている「実体的属性」として見なされてしまいます。本来、相互扶助的な関係においてこそ「関係的属性」は発揮されるものなのに、他人の功績のために利用されるような仕事にはどうしてもシビアにならざるを得ません。だから、管理職が「評価」を視野に入れようとすればするほど、個々の教師は管理職との「連携」に気持ちを向かわせ、教師一人ひとりが自分の仕事の牙城を囲い込んで守ろうとする傾向を強めるために、学年とか分掌のチームなどは作れなくなってしまいます。このように、現場のコンセンサスを得ずに導入された教育改革は、学校において理念や理屈などの「頭脳」を優先させ、「現場性」や「身体性」を弱体化させていくことになります。
 また、教職員評価制度などの「職務管理による搾取」の他にもう一つ「書類管理による搾取」というものもあります。例えば、「年間学習指導計画」とか「シラバス」なんていうのはかつてはありませんでした。1年間の授業展開は、担当教師が教科書か問題集を持ち寄って目次を開きながら中間考査や期末考査の範囲を決めていました。生徒は教材を見ればおおよそ学習内容を知ることができるし、評価内容の細かいところまで知る必要はありません。「宿題は平常点に含めますので、期限を守って必ず提出して下さい」と一言いえば十分なのです。これらの書類は「学校設定科目」ならまだしも、学習指導要領にある科目についてはそれに基づいて教科書も問題集も作られているので、どの授業担当者も大きく外れるということはありません。こういった管理目的の書類は、県教委や管理職の保身のために作るのであって、教員には全く利用価値がありません。また、役人のように常時デスクワークをやっているわけではないので、書類を増やしたり整理したりする趣味もありません。
 かつて、私は学年会計の仕事を担当したことがありますが、調理実習で使う具材代を請求する時に、それまでは支出伺書に領収証を添付すればよかったものを、来校した県教委の指示で「内訳書」をつけるようになったのです。これで事務処理に1時間費やすことになり、教員の本務である授業の準備などに当てられる時間が割かれることになりました。このように、県教委が来校したり管理職が変わるたびに書類を増やされたり体裁を変えられたりするのは全くたまったものではありません。1年間に配布される書類の量は1つのリングファイルには収まり切れないほどあるし、会議も多過ぎます。毎年ルーチンワークでやっていることは資料を見ればわかるので、「伝達事項」は最小限にして「審議事項」に十分時間をかけるべきです。
 県教委が策定した「働き方改革ガイドライン」には、在校時間の上限、業務量の適切な管理、校務支援システムの活用、担任と副担の業務の平準化、繁忙期の分掌における他分掌への業務分担などを掲げていますが、実際にこれらは「職務管理や書類管理による現場の搾取」や「仕事のバラマキ」につながることはほぼ確実で、働き方改革を進める上での有効な手段になるとは私には思えません。県教委は一体どこまで能天気なのか知りませんが、自分たちがこれまで現場に対して行ってきた無節操な施策にこそすべての元凶があるということに全く気付いていないばかりか、理解しようともしていません。
 教員は、仕事自体が辛いのではありません。徒労感に終わる、やり甲斐のない作業や無意味だと思える仕事が多過ぎて辛いのです。法的に決められている仕事は、意義や必要性を考える前に、法が改正されない限り何も拒否することができません。例えば、大抵の教員にとって、授業準備自体は嫌なものでも辛いものでもなく、むしろ爽やかで楽しみでさえあるでしょう。部活動本命の顧問は、休日返上でも労苦を厭わず子供たちのために尽くすことは「やりがい」だとすら感じています。しかし、それを始められるのが勤務時間外、日がすっかり沈んでからという現状が日夜続くことに絶望感を抱くのです。これら「使役」のもたらす「精神的疲労感」は、子どもを相手にしたり授業準備したりといった爽やかで清々しい仕事の疲れとは一線を画すものであって、働き方改革の本丸は、「労働時間短縮」以上に「徒労感の解消」であることはほぼ間違いありません。
 前述したように、働き方改革は「build & build」や「scrap & build」で進めるのではなく、「scrap & scrap」を念頭に「ムダ、ムリ、ムラ(排除すべき3M)」を省き「simple,slim,smart(目指すべき3S)」になるような道筋で考えるべきであると私は考えています。