ウッピー先生の「ぶっちゃけ教育論」P3

授業料無償化よりも、30人学級の実現を 
 選挙のたびに、候補者が異口同音に「高校授業料の無償化」を叫んでいるのだが、確かにこれは消費者受けするのかも知れない。しかし、高速道路だって利用者が高速料金を支払って使っているのに、サービスを受けない者が税金を支払って、サービスを受ける者が利用料を支払わないというのは「利用者負担の原則」からいっておかしくないのか。授業料無償化というのはマルキシズム以外の何ものでもない。
 本当に日本の教育をよくしたいと思うならば、「30人学級の実現」を公約として掲げて欲しいものである。「30人」というのは根拠があります。担任でも授業担当者でも経験があると思いますが、席替えをしたあとに、HRでも授業でもある特定の生徒に話しかけたい場合、40人であるならば座席表で位置を確認するのが普通であろう。私の経験では、座席表なしで目が届く範囲というは最大30人だからである。クラス定数を国際比較しても、OECD加盟国中、日本と韓国がダントツに多い。

習熟度別分割授業の学習効果は“うそ”である
 以前、勤めていた単独商業高校では、会計分野の授業は、1クラスを習熟度別に2分割にしたり、2クラスを3分割にして授業をしていたが、定期考査は統一問題でやっていた。私は主に下位クラスを担当することが多かったのだが、私の経験では、できる子とできない子が混ざっていた方が授業はやりやすい。なぜならば、わからない所があると、できない子は教師に聞くよりも、まず友達のできる子に聞くからである。できない子は、教師の言葉よりも友達の言葉を通じで教えられた方がわかりやすいと受け止めている。それに、周囲がわかると自分はわかろうとして緊張感を持つからである。できない者同士はお互いにできない者同士なので、周りに聞いても誰もわからないのである。私の経験では定期考査の結果は、習熟度別に分割するよりも、むしろ均等に分割した方がクラス平均は高くなっている。できない子は生活上問題を抱えている子が多く、欠課も半端ではない。年度末に、一人の授業担当者が欠課補充や赤点補習などで30時間も授業をやらなければいけないこともある。一体、誰が下位クラスを担当するのかという問題もある。特に足切りができていない高校では、習熟度別分割授業はやるべきではない。

●定期考査の統一問題は、必ずしもフェアとは言えない
 私が勤めていた最初の単独商業高校では、当初、定期考査は各々の担当者が自分の受け持つクラスの生徒の実態を見ながら各自が考査問題を作っていた。最終の目的地点は決めておいて、5段階評価ではそれぞれの比率が決まっていたので、クラスごとに成績が偏るということはなかった。やがて、検定至上主義が商業教育を席巻するようになり、学習目標も内容もグローバル化が進んでいくとともに、定期考査も足並みをそろえて共通問題が実施されるようになった。今では平常点の付け方の細かいところまで担当者で打ち合わせをして決めているのが通例である。共通問題で出題すると、毎回、強制力を自負する特定の担当者のクラスの平均点だけが高くなるという傾向がある。また別の担当者は、クラスの平均点を上げるために、定期考査と似たような問題を作ってそれを何度も繰り返し解かせていた。ふたを開けてみると、クラスによって平均が30点以上開くこともある。共通問題へのこだわりは、私の年代を境界にして、自分より年配の人はこだわりがなく、むしろ若めの人の方にこだわりが強い。その理由はよくわからないが、他人が自分と違ったことをやっているのを見ると不安になるのかも知れない。そして、そのこだわりは、着眼点は違うが、管理統制という側面から管理職側と符合が一致するのである。私個人としては「一人屋台方式」の方がやりやすい。なぜならば、授業は横を向きながらやるよりは、受け持つ生徒の方を見ながらやるものだからである。それに、担当者会議などの細かい打ち合わせを省略できるという合理的な側面もある。何よりも、その方がストレスはないし、「任されている」という気持ちからモチベーションが高まるのである。まあ、他人と「どんぐりの背比べ」をしたがる小悪魔的な発想を持つ人には合わないかも知れないが。

年度末には必ず1年間の総括を行うべき
 私がかつて勤務していた併設校では、年度末には必ず一年の総括をやっていた。どの教職員も学年会に所属しているので、学年ごとに1年間を振り返って反省点や改善点を出し、これを、関連する分掌・学年ごとにまとめて職員会議に提出するのである。ここで肝心なことは、一度、分掌や学年の枠を取っ払い、様々な領域から意見を出し合うことである。そして、これらを内容ごとに各分掌・学年に持ち帰り、再び職員会議で来年度に向けて改善案を出すのである。こうすることによって、初めて他人の意見や全体の意向を知ることができるし、何よりも「独りよがりの独善者」を出さないためにも必要なのではないか。学校では自分のあずかり知らぬところで物事が決定し、突然出てきたことに戸惑うことがあまりにも多過ぎるのである。だから職員も「何故だか知らんが、決まったことだから・・・」というような感じで「もの言わぬ子羊の群れ」になってしまっている。何よりもこういう職場では、「我々職員は、お互いに共通の目的を持った共に同じ職場で働く同志である」という気持ちに私はなれないのである。故・松下幸之助(パナソニック創業者)が言われたように「一人一人が経営者」の精神を持って衆知を集め、学校運営に当たらなければいけないのだ。

「いじめ問題」についてウッピー先生が答えよう
 愛知県のある市立中学校で、3年の男子生徒が刺殺されたという事件があった。私が気になるのは「学校がいじめを隠蔽している」という毎度おなじみのマスコミの論調である。小・中・高問わず、どこの学校でも毎年いじめアンケートを実施し、問題があればこれを担任会・学年会に提起し、深刻な場合は生徒指導部や相談部の特別指導に入る。そして、職員会議で報告があり全教職員が周知することとなる。おそらくこの中学校も、どこの学校でも当然のこととしてやっている真っ当なことをやっていたのだと思う。アンケートの内容に問題がなければ破棄することだってあるし、学校内で起こる様々な細かい出来事まで、教育委員会に逐一報告するようなことはしていない。報告すること自体がいじめ問題解決の核心ではないからである。マスコミがこういう報道の仕方をするものだから、世論もまた「学校・教師・公務員バッシング」を始めるのである。このことを反映して、時代の流行というかいくつかの問題点を私なりの意見をまとめてみたいと思う。
 第一の問題点は、いじめというものが、事実として最初からそこにあるものとして取り扱われているということである。それはまるで、暴力や喫煙のように、疑いようもなく誰でも発見できるかのようである。だからこそマスコミは、こういう「単純な事実」を見逃したり隠蔽したりする学校はけしからんと、居丈高に言えるのである。けれども、いじめというものはそもそも、そのような「単純な事実」としてあるのではなく、「これはいじめである」と認定されて初めて生じてくるものなのである。しかし、そのようにいじめを認定する学校の力が近年は大変に弱まってきている。だから学校が「これはいじめである」と認定したとしても、それがすんなり受け入れられることはほとんどない。つまり、いじめていると認定された子供たちはもちろん、その周囲の子供たち、さらにはいじめられている当人でさえ、「これは遊びだ」とか「いじめではない」と言い募り、教員の認定をなかなか認めないことだってある。こういう場合に、かつてのように学校に力があれば、「これは何と言おうと、いじめなのだ」と押し切ることができた。だが、そういう力を失ってしまった今日の学校の場合、無理にそれをやろうとすれば大混乱になってしまう。だから学校は、「これはいじめなんだ」と強く押し切ることもできず、そうかと言ってまた、何もなかったとするわけにもいかず、きわめて不安定な立場に立たされてしまい、状況によっては二転・三転するような煮え切らない態度を生み出すのである。
 第二の問題点は、いじめの形態が今日では大きく変化しているということである。いじめによる自殺といえば、すぐに、1986年の中学生の事件「このままじゃ生きジゴクになっちゃうよ」という遺書を残した事件を引き合いに出す。しかし、30年以上も前のこの時代と今日とでは子供たちの集団の質が全く異なっている。つまり、昔であればまだクラスというものが機能していたが、今日では、クラスの中に無数のクラスがあるようなものである。そして、その無数の仲良しグループの中で関係がめまぐるしく変わっていく。そこには当然、いじめらしきものも生じてくるのであるが、それを担任の教師がすべて把握するのは至難の業である。それを30年以上も前の感覚で「担任ならば分かるはず」と言い募るのはあまりにも無神経な言い方である。
 第三の問題点は、いじめの問題を最初から「単純な犯罪」として扱っていることである。だからそこでは、まるで恐喝や暴力などと同じように、関係者をすぐに捕捉し、指導を加えるのが当たり前であるかのように語られている。けれども現実は、いじめとは断定しきれない「いじめ以前のもの」が無数にある。つまり、人間関係のトラブルである。そして、こういうトラブルは、ある一定の集団が形成されている以上、必ず生じてくるものだし、また、それを解決していくことは学校の教育課題でもある。しかも重要なことは、この「いじめ以前のもの」はそのまま「いじめ」までなだらかに連続しており、その境界線を確定することはかなり難しい。だから、あえて言えば、学校教育にとっていじめは必然であり、いじめまで連続する「いじめ以前のもの」もまた必然である。しかもこの場合、子供たちにとっては、教員や親との垂直的な関係とは異なる、子供たち同士の水平的な関係が決定的に重要である。だからこそ、子供たちは教員や親に相談したがらないのである。そして、そういうメカニズムは、子供たちの自立にとっては不可欠の要素なのである。教員は普通、以上のような「教育の条理」をよく分かっているので、「いじめ以前のもの」を察知した場合、教育的な指導をしようとする。その指導のありようは、「被害者」を擁護して「加害者」を罰するというような単純なものではなく、むしろ関係するそれぞれの子供たちが少しずつ大人になり、互いの関係を修復していけるような指導をするわけである。けれども、子供の自立を促すようなそういう指導は今日では大変に難しくなっている。前述したように、子供たちや親に対する学校の力が弱まり、いじめの形態も変化して捉えがたくなっているからである。
 第四の問題点は、いじめの問題と自殺や殺傷の問題とが連続的に語られていて、あたかも子供の自殺や殺傷にまで学校・教員に責任があるかのような風潮があるということである。もちろん、教員の一人として同義的な責任を感じるのはよく分かるが、それが教員の職務として100%責任範囲だとされたなら、全くたまったものではない。なぜなら、教員がそういう自殺を予見し、それを100%防止する措置を取れるかといえば、そんなことは不可能であるからだ。裁判所の判例でも、そこは教員の責任範囲ではないというのが通例になっている。
 問題点は以上の通りであるが、文科省や各地の教育委員会は、これまでも、いじめの件を巡って会議を開き、「いじめを隠すな」「いじめが多いのは決して恥ではない」というアピールを出してきた。本来なら、ここまで述べてきたような実情も説明して欲しいところである。ただ言えることは、学校や教師がたとえどんな万全ないじめ対策を講じたとしても、人が集まれば必ず派閥ができるのと同様、大人の職場にも、学校という教育現場にも、いじめは必然的に存在するということだけである。