ウッピー先生の「ぶっちゃけ教育論」P1

●教職員は完全無欠の聖職奴隷になりうるのか?
 愛知県の公立学校では、毎年4月当初、「不祥事を起こさないためのチェックリスト」(全部で25項目)というものが全教職員に配布される。カードサイズで老眼には耐えがたい小さな字で、これを常に携帯しておけというわけである。まるで教職員は「聖人のごとく完全無欠であれ」と言いたいがごとく内容である。表現も「上から目線」で、まるで子供を諭すような文言である。ここで疑問に思うことが2つある。
 1点目は、この文言は一体、誰が誰に対して言っているのかということである。これを創案したそちらこそ不祥事を起こさないよう、マスコミにすっぱ抜かれないように注意してくださいよ、と私は言いたいのである。県教委の公表では、毎年、わいせつ行為や体罰、交通違反など懲戒処分を受けたものは20数名前後。教員や顧問という特殊な立場からすれば、不祥事につながりやすい環境におかれているのは事実であるが、県内6万人以上と言われている教職員数のうち20数名というのは、世界中どの業種の犯罪率と比べても一般論で片づけるほど決して多くはないということである。「どうすれば不祥事をなくせるか」・・・この問いに対して「本人の自覚」としか言いようがない。
 2点目はこの文章を創案した人は、本当に人間の本質がわかっているのかということである。私が総合高校にいたとき、10年以上前に教え子の女子生徒にわいせつ行為をしたとして、校長が懲戒免職処分になったことがある。この校長、6月頃から体調不良ということで急に学校に来なくなった。この事件を知ったのは、修学旅行帰りの新幹線車内の字幕スーパーである。翌朝、中日新聞の朝刊に記事が載り、朝礼はてんやわんや。後日、教育委員会のナンバー2が来て保護者に謝罪をした。私はその時、保護者の誘導係をやっていた。校長は教頭にメール1本送りそれを教頭が読み上げたが、本人は雲隠れである。私は何が言いたいかというと、人間は地位やポジションに関係なく、誰でも失敗や過ちを犯すものだということである。そうであるならば、子供に諭すような表現を用いなくても「教育行政も含めて、我々教育に携わる者は、県民全体の奉仕者であることを自覚し、常に公務員として求められる姿勢や心構えを理解して行動しよう」というスローガンにするのが正しいのではないのか。それに、このチェックリストは項目が多すぎる。プライベートのことまで口を出し過ぎているようにも思える。我々教職員は公職には就いているが、その前に善良な一市民であることを忘れてはならない。

●教育委員の中に、少なくとも1人は現職を入れるべきだ
 愛知県では4年に一度、教育委員が5人選出されている。HPを見ても、委員の紹介と会議の履歴が記されているだけであって内容は何も記されていない。委員の構成は、会社社長2名、プロゴルファー、元公立小学校長、大学准教授らが各々1名ずついる。どのような方か存じ上げぬが、さぞかし人格高潔で、ある分野では識見を有する方なのだろう。そして、このメンバーの中で現場の実情を代弁してくれる方は一体誰なのだろうか?と私は考えるのである。ほとんど学校現場に関しては「素人」である。元公立小学校長は現職の我々とは立場もベクトルも違うし、大学の研究室から出たものと学校現場とでは認識に「ズレ」がある。こういった市民(消費者)中心のメンバー構成は、要求だけが一方的に膨らみ、学校現場の周辺業務が際限なく増大していくのが特徴である。

●改善の実感ができない教育委員会の学校訪問は、やらない方がましである
 1年か2年に一度、教育委員会の何がし課からの学校訪問が必ずある。特に教職員課や高等学校教育課の学校訪問は、教職員全ての授業を視て回ることができるよう授業変更をしなければならず、毎回、教務部も大わらわである。それに合わせて、我々教職員も、学習指導計画書を作成して提出する。巡回中こちらから頭を下げて挨拶を交わした後、訪問客は何やら紙面にチェックを入れて通り過ぎていく。教室にいるのは1分足らず。そのために学習指導計画書を1時間以上もかけて作成するのである。授業を見たければ見ても構わないが、なるべく負担や影響を与えないようにするのが「現場に対する配慮」というものである。それに、教職員全員の顔を見たければ、授業後、臨時職員会議を開ければいい。そこで何らかの方針や改善点を伝えればいいのである。密室の中で一部の者たちだけで物事を決めるのは「ずるい」と言わざるを得ない。この事が周辺業務を際限なく増大していく一因にもなっている。役所のデスクワークから出たものと学校の現場性とは認識に「ズレ」があるから、質疑応答、必ず折り合いをつけるべきであろう。

●教職員評価制度は、管理統制の手段(ツール)としてしか機能していない
 教職員評価制度は、平成12年度より東京都が「人事考課制度」として導入して以降、組合の自治力低下に伴い、世論のバッシングという追い風もあって、あっという間に全国に広がっていった。本県でも例に漏れず、平成19年度より実施に踏み切った。毎年4月、教職員評価制度の流れの説明を受けて、各自、自己申告・評価シートを作成して校長に提出する。やり方は、シートの学習指導とその他の目標区分の欄に、本年度の目標・達成基準・具体的な手立てを書き込み、これをもとに7月末頃に1回目の校長面接、1月末頃に目標への取り組みと達成状況、および自己評価を書き込み、2回目の校長面接をするというものである。シートの裏面には自己評価と校長による評価欄がある。人間の特性や行動をアイコン化して人事を掌握していくやり方は、いかにも唯物的人間観に毒された国家社会主義的な手法である。毎回、これをもとに校長はマウントを取りながら面接をするのである。面接内容は、およそ、不祥事を起こすなということや、生徒や親とトラブルを起こすなといった程度のものである。
 元々、こうした制度の導入は、教職員の能力開発、適材適所の人事、モラルやモチベーションの向上などを目指したものであるが、実体のあるヒエラルキーを定着させるだけで、教職員の能力やモチベーションの向上につながっていないのが実情である。私は、校長面接は年に一度、人事異動にかかわる面接だけでいいのではないかと考えている。そもそも、自分が小さな神様になったつもりで人を評価することほど傲慢不遜なことはない。それよりは、誰もが校長に相談に行くことができるよう開かれた校長室にすべきである。
 諸外国では、このように同一職場内だけで一方的な評価をすることはなく、必ず学校の教育や教員研修などを評価する組織として独立した機関を設けている(例.イングランドのOFSTED:The Office for Standards in Educationの略)。そして、成果の上がらない学校には予算は行かなくなるという、厳しい学校経営が要求されている。

●学校・教師に過剰なクレームをつける「メンヘラ」の親は、際限なく賠償金をねだる朝鮮人と同じだ
 生徒や親との何らかのトラブルが発生する確率は、管理職よりも、多くの時間、生徒や親と接している教職員の方が圧倒的に高い。以前であれば、管理職が教師の側に立って代弁もしたが、今はその立ち位置が昔と比べてかなり異なってきている。生徒との関係がこじれてメンヘラの親が学校に怒鳴り込んできたりすると、管理職は「保身」という立場から、まるで子供をあやすように生徒の言い分を頷きながら聞き、教職員にはまるで警察官のごとく取り調べを行うのである。なぜならば、自分が「裁定者」になれば立場が安定するからである。これがいわゆる「部下を売る」という行為である。
 「学校が悪い」「教師が悪い」「他の人が悪い」「環境が悪い」これらはすべて「マルキシズム」である。マルキシズムは、環境のせい、人のせい、周りのせい、時代のせいにして、怠けることを許すような「言い訳の哲学」です。自助努力の精神を忘れ、みんなが同情を乞い、補助金を求め、社会福祉を求める国になっていけばこの国の繁栄はないものと私は考えています。

●不寛容社会に必要なのは「許し」である
 今や日本は1億総評論家時代。マスコミなどで、連日、有名人のバッシングが報道されている。過去のいじめ行為について語った雑誌記事が問題となり、東京オリパラ開会式の楽曲担当を辞任したミュージシャンの小山田圭吾氏もそうである。20年以上前のインタビューで、本人は当時を振り返って反省し謝罪をしている。当人を採用した東京オリパラの事務局も、20年以上前の雑誌記事まで見て調べているはずがない。不特定多数の者が、彼に対してツイートを通してバッシングしているのを見ると、一体どちらがいじめの加害者なのかがわからなくなる。
 目に余る人がいても、昔の人は「もしかして自分も?」と考え「自分は気を付けよう」と言葉のベクトルを反省に繋げていました。かつての日本人は「人は自分を映し出す鏡」「お天道様が見ている」というスピリチュアルな視点も持っていました。一方、「謝れ、謝れ」と言って「謝れ症候群」になっている人に限って、自分の出世や収入に影響を及ぼす人に対しては過度に迎合し、そのストレスを地位や名誉のある人にぶつけ謝らせることで満足しています。どんなに憎い相手であったとしても、決して言ってはならないこともあるし、努力ではどうにもならないような一線もある。相手はぐうの音も出ないと確信していても、職場という名の戦場では相手に逃げ道を残すことも必要です。

教員研修制度について
 中教審の特別部会は、教員免許に10年の期限を設けている教員免許更新制を廃止して、各都道府県の教育委員会や校長らが教員の研修を管理するという方針を打ち出した。理由は、①免許の効力とひも付けされた更新講習は形式的で学習効果を低下させる ②多忙化する教員に負担が生じているうえ人材確保に影響を与えて教員不足の要因になっている、などである。いかにも、上意下達のお役所的発想なのだが、文科相が「主体性や誇りをもって研修に打ち込める制度を実現してほしい」と要望しておきながら、一方で、「研修を受けない教員は職務命令違反による懲戒処分の対象となりえる」という矛盾した内容も含まれている。また、「AIの発達などを踏まえて教員が常に最新の知識技能を学び続ける必要性」とあるが、我々教員は技能職ではない。学習内容は学習指導要領の規定に縛られているからだ。もし、学習効果を高めるために新しい機器やアプリケーションを導入するのであれば、コンピュータに堪能な教員が職場には必ず一人はいるのだから、県主催の研修に参加してもらい、それを学校に持ち帰って広めれば済むことなのである。私は免許更新のために、ある国立大学で研修を受けたのだが、感想を言わせてもらえば、残念ながら「教養にはなるかも知れないが、大学の研究室から出たものと現場との間には認識のズレがある」ということである。もちろん参考になったものもある。「主体性」というのは、我々教員が必要に応じて学び取るという意味である。だから、官製研修というのは強制力を持たせない方がいい。また、定期考査最終日によくやられている「やったという実績が欲しいだけの職場内研修」もやらない方がいい。成績処理で忙しいうえ、HRや部活動などで生徒を個別に呼んで指導できる絶好のタイミングだからである。
 私が若かった頃、よく組合が主催する教文活動に参加したものであった。こういう自治的な組織が主催する「手作りの勉強会」や「実践交流会」というのは、全体的にいぶかしがられる傾向にある。しかし、クラスづくりなどのノウハウなど先輩から教えられて生かされたものは実に多い。何よりも、研修後の他校との情報交換が一番楽しかった。さらに、高生研などの全国的な集会に参加し、お互いの実践について聴き、交流し、議論する活動の場では、本当に励まされ明日の活力にもつながった。こういう勉強会では、旅費、宿泊費もいとわず参加するのである。ただ、左翼的な思想(イデオロギー)が鼻につくという人もいる。私は軍備増強に賛成だし、いいものは「いい」と主張するので、自分としては独自路線なのかも知れない。