ウッピー先生の「ぶっちゃけ教育論」P4

●学校のブラック化
 TBSの報道特集「ブラック勤務の実態」の冒頭で、大阪府立高校の高校教師が、教員の長時間勤務を裁判に訴えたことが紹介された。この教師は既定の月当たり80時間を超えて155時間も残業していたのである。そして現在、適応障害に陥り5か月の休養を取っているということだ。教師の全てとは言えないが、授業のほか、担任、生活指導、部活顧問、海外語学研修引率など諸々の周辺業務を抱えていれば、このように残業が増えるのはおよそ察しの付くところである。文科省が調査したデータによると、過労死ライン超えた教職員は小学校が3割、中学校が6割にものぼる。そして、心の病で1か月以上休んだ教員は2020年の統計では9,452人いたそうだ。本人がインタビューで「勤務のブラック化を解消するには、人を増やすか仕事を減らすかの二択しかない」と語っていたがもっともな話である。この番組では、教師のブラック労働に追い込まれる理由として、半世紀前に作られた「給特法」を挙げている。給与の4%を上乗せする代わりに、教職員には残業代が支払われないというものだ。このことが、管理者側のコスト意識を失わせているということだ。
 福井県のある中学校では、週1回「ノー残業デー」を作ったり、部活動を減らして顧問を2人にするなどの取り組みを行っているが、教職員側からすると、仕事の中身が変わらず減らないのに「ノー残業デー」や「定時退校日」を作るというは実際困るのである。それに、部活動の数を減らして生徒から機会を奪うよりは、学校から切り離して、原則、部活動は社会教育の中で行うものとし、学校は運動場や体育館の施設を提供するだけで、欧米先進国並みにいろいろな世代が集まって専門的な指導者のもと、地域のサークル単位で行うというのが最もよいというのが私の持論である。特にスポーツはそれが健全な姿だと私は思う。気になるのは「教員側の意識改革」という、まるで長時間勤務は教師側の責任であるというような中学校校長の発言である。これは「マネジメントの手抜き」という行政ないし管理者側の責任なのではないか。
 また、デジタル教材を作ったり、リモート会議をするなどの「デジタル化」は、気を付けないと逆に仕事が増える可能性がある。私が非常勤講師として3か月間勤務していた高校では、校務系、教育系、学習系の3種類パソコンがあり、IDやパスワードが5~6種類もあり管理が大変なのである。私は唯一校務系のパソコンだけが使えたが、このパソコンではUSBが使用できず、勤務記録簿を自宅でA4版で印刷し、学校の複写機でA3版に拡大し両面印刷をして提出していた。また、この学校のことではないが、特別教室を「メソ〇〇〇」を使って予約するよりも、ホワイトボードを使うなどアナログ的に管理した方がやりやすいといったことがある。こういうことは、デジタル化による管理効率ばかり強調せず、現場の動線を意識して考えないといけない。
 次に、茨木県守山市の小学校の取り組みが紹介された。市は7,363万円を拠出して、理科、図工、音楽などの専門科教員を増やし、担任に週5~6コマの余裕を待たせた。さらに、3学期制を2学期制に改めて残業を64→31時間に減らしたのである。このように「こうあらねばならない」という固定観念を捨ててパラダイムシフトをしない限り、教育現場は改革されないのである。私案であるが、中間考査を廃止して定期考査は年3回でもいいのではないかと思う。生徒の理解度の確認は、各担当者が授業内で進度に合わせて「小テスト」を実施すればいい。それを平均6割の平常点に換算して評価に含めれば問題はない。
 最後に、メインキャスターの金平茂紀さんは「教師は聖職と言われていたが、一人の一市民である」という発言で締めくくった。私のHPを見たかどうかは知らないが、我がHP「ぶっちゃけ教育論P1」の冒頭で述べていたことと同じ内容である。どこの誰がどれだけ私のHPを閲覧しているかは知らないが、ゆっくりとではあるが着々と「学校や教師主体の現場主義」のプレゼンスが浸透しつつあるように思える。

●学校を改革するために
 今の公立学校のような「お役所型」の組織というのは、「ミスさえ出さずに定年まで行き延びたら出世する」というスタイルになっています。つまり、「積極果敢な人はみんな消えていき、ミスを出さなかった人だけが一番上まで上がれる」という組織です。これは基本的に、顧客がいない会社のシステムと同じです。役所というのは、基本的にはお客さんがいなくて、税金を使って自分たちがやるべき業務を消化しているだけなので、「いい仕事をすれば収入が増える」とか「会社の売り上げが増える」などという考えはありません。生き残るために、売上や利益を上げる必要もありませんので、「失点を出して消されないことが大事」という組織になるわけです。それに、役所のような縦割り行政の中では、自分の関わりのあることしか考えないようなセクショナリズムが存在するということです。こういうことが、学校を大胆に改革できない理由でもあろうかと思います。
 組織での創造性を高めるためには、上の人は考え方を柔軟にし、下の人も自分自身をもう一段ステップアップすることによって、より物事を考えるようにならなければいけないでしょう。とにかく学校のような「学校秀才」が集まる集団というのは、木の幹を見ずに末端の枝葉の細かいところを見るような悪い癖があって、物事をさらに細かくして小さく小さくして考えるような習性があります。
 学校に限らず民間でもどこでも、人を使うという場合に、いちいち事細かいことに指示・命令していたのでは、部下はこれに従うのが習い性になって、自主性を発揮することもなく、言われたことだけをやるようになってしまいます。そういう行き方は部下の意欲を奪ってしまうものですし、そういうところからは創意工夫も生まれてこないでしょう。ですから、上司としては基本の方針というものはきちっと示さなくてはいけませんし、また押さえるべきポイントはしっかり握っていなくてはいけませんが、あとは部下を信用して、自由に自主的にやらせるべきです。結局、それがより人間の本性にかなった行き方だということです。
 アイデアを馬鹿にせず、年齢・地位・立場を超えて関心を広げられる組織に変えていくために、「自由にモノが言える雰囲気」を作るような努力も必要です。
 今まで教育行政は、教職員評価制度の導入によってヒエラルキーを定着させたり、教師を階層化・序列化して分断したりするなど現場支配を強めてまいりましたが、行政も組合も大きい力を持った場合に、その力の根底に妥当性というか正しい考え方がなかったら、その力が教育にとってプラスになるどころか、権力化して横暴なものになり、かえってマイナスになってしまうでしょう。ですから、その力が大きくなればなるほど、常に謙虚な心、謙虚な態度で何が正しいか、何が真の道かといったことを考え、事に処していくことが求められています。労使双方がそういう態度で、対立しつつ調和し進んでいけば、発展も生まれ、社会に寄与貢献することができるのではないかと私は考えています。

●最後に・・・
 33年間という教師生活から、現在までの学校教育の問題点や改善策を述べてまいりましたが、地位や立場の違う人から見れば、いろいろと問題点や欠点もあり賛否両論あるかも知れません。ここには、今の学校教育の中のごく大まかのことの一端を記したに過ぎませんが、一応私の考える範囲でまとめてみたつもりです。私のような、何の地位や権限もないいわば端っくれの一兵卒が、このような形であれこれ考えたりまとめたりするなどということは一面おこがましい気も致します。けれども同時に、国を思う一国民としての立場から、日本の学校教育の在り方について自分の考えるところを率直に述べさせていただくということは、必ずしも無意味ではないと感じるのです。何と申しましても今日、国家社会を支えているのは一人一人の国民です。ですから、日本の国をよりよくしていこうと願うのであれば、お互い日本国民一人一人が、教育や社会の在り方や理想の姿というものについて共々に意見を出し合い、お互いの知恵と力を合わせていかなければならないでしょう。そういうお互いの積極的な努力が一つ一つ積み重ねられてこそ、初めてこの社会がよりよき姿において発展していくのではないか、またそこに民主主義の真価が発揮され、自ずと道が開けていくのではないかと思うからです。その意味において、教育に携わる者もそうでない者も、それぞれのお立場において、大いに発信し、提案していっていただきたいと思うのです。